エネルギー
私が乗務していたヘリコプターは一人で操縦します。
だから、どうにでも好きなように、自分の意思をヘリコプターに伝えることができます。まるで手足のように、自由自在に。
風の中でも、ピタッと一点で静止することもできます。
一人というのは、瞬時に自分の意思を行動に移すことができるんですね。そしてその「瞬時」の積み重ねが、うまさになっていきます。
薬剤散布では、田んぼの上空を低く飛びながら送電線を避けなければなりません。送電線が迫ってくる中で、見事なインメルマンターン——急上昇しながら機体を反転させる機動——をやってのけるパイロットがいました。一瞬の判断の遅れが命取りになる状況で、機体を意のままに反転させていくんです。
物資輸送では、山の斜面にある作業現場へ生コンや鉄塔の資材を運びます。山間の気流の悪い、障害物だらけの中で、杉の枝との距離をcm単位で制御しながら、ピタッとヘリを止めてしまいます。
自分の意思が、そのまま機体の挙動になる。その反応の速さこそが、ヘリコプターという機械の魅力で、自分のスキルでした。
小さなエネルギーで動く世界
私たちは産業革命以降、エネルギーを増幅する機械を操って発展してきました。
ちょっとアクセルに力を加えるだけで、100km/hの速度が出せます。
少しエンジンレバーを前に押すだけで、あんなに重い飛行機を空に浮かせて、800km/hの速度を出せてしまいます。
私たちの中にある小さなエネルギーを出すだけで、物凄い力を得ることができる。そんな世界に私たちはいるのです。
そして、そんな世界に慣れ切ってしまいました。
人も同じように、意のままに動くと勘違いしています。組織も同じように考えて、小さなエネルギーで大きく動くように巨大な組織を作ってきました。同じような価値観を持たせて、同じような判断をさせて。
でも、機械と人には決定的な違いがあるようです。
機械はレバーを引けばそのまま動きます。しかし人には、レバーと行動の間に「感情」が挟まっています。
ここが、どうも厄介なところのようなんです。
感情が生まれるとき
誰かの言動に、ふっと不快な感情が湧く。なぜ不快なのかと考えてみると、大抵は自分の価値観や判断基準に合わないからなんですね。
「こうあるべきだ」「こうであってほしい」。自分の中にあるその基準に、何かがぶつかった時に感情が動きます。
そしてその次に何が起こるかというと——私の場合は、その不快な感情に辻褄を合わせるために、大義名分を考え始めていました。
「こうする方がもっと効率的だ」「理にかなっている」「当たり前のことだ」
そうやって理論武装をしていくんですね。この感情は正当だ、相手が間違っているのだと。
振り返ってみると、そこにはもう本来の目的はなくなっていて、自分の感情の捌け口としてしか考えていなかったような気がします。
私は副操縦士や機長を育てる立場にいて、まさにこれをやっていました。
一生懸命教えようとしても、まったく相手に響きません。自分が正しいと思って上から言い聞かせても、相手はわかってくれたそぶりをするだけです。
今思えば、相手が思い通りに動かないことへの不快感が先にあって、「これが正しいのだから」と理論武装していただけだったのかもしれません。
結局、相手を育てるという本来の目的はどこかに消えて、自分の正当性を証明することだけが残っていました。どんなに声を荒げても、相手に届くわけがなかったのでしょう。
感覚、感情、思考、運動
人間が覚醒している時、私たちの中では「感覚」「感情」「思考」「運動」という四つの要素が動いているそうです。
何かを感じて、感情が湧いて、考えて、動こうとする。
この流れの中で、感情と行動の間にはわずかな時間差があります。
その時間差の中で、感情のまま動いてしまうと、本来やりたかったこととは正反対の結果になってしまうことがあるんですね。
パイロットの世界では、これを何度も経験しています。
緊急事態が発生して「エンジンファイヤー!」と大声を出してしまうと、一気に緊張度が上がります。手に力が入り、視野が狭くなり、副操縦士にも無用のプレッシャーがかかります。チーム全体が崩れていくんです。
だから緊急時ほど、平常時の声のトーンを保つようにしていました。
内心はビビっていても、何事もないように装います。口はカラカラでも「結構、キツかったね」と平静を装って声を出します。
あの感情と行動の間のわずかな時間差の中で、なんとか踏みとどまれるかどうか。それだけのことなのですが、結果はずいぶん変わってくるように思います。
問いかけの二つの顔
ここで、ちょっと面白い話があります。
人を混乱させて行動できなくするのは、実はとても簡単です。大抵の場合、「何をやっているのか」と問いかければいいんです。
着陸の最も緊張している瞬間に「今、何やってるの?」と横から声をかけられたら、もう操縦できなくなってしまいます。自分の行動を疑い始めた瞬間に、それまでスムーズに回っていたものが止まってしまうんですね。
一人で集中してやるべきことをやっている時に、外から問いかけてはいけません。
ところが、まったく同じ「問い」でも、自分の内側から湧き上がった時には、ちょっと違う働きをするようなんです。
会議で相手に反論されてカッとなった時、部下がミスをして苛立った時。
「私はいったい何がしたいの? 何をしているの?」
そう自分に問いかけると、あの感情に飲み込まれそうな瞬間から、ふっと抜け出せることがあります。
外から投げかけられると人は壊れてしまう。でも内側から湧き上がると、自分を取り戻す力になる。
同じ言葉なのに不思議なものです。これがメタ認知というものなのかもしれません。
人を感じる
今まで私たちは、論理的に説明する、理詰めで相手を説き伏せる、ということを社会のルールのようにやってきました。
会議でも理路整然と説明できる意見が主流を占めていきます。リーダーもあらゆるデータや理論を駆使して相手を説き伏せ、行動させるようにしてきました。
私もいろいろなデータや資料を、自分の正当性を立証するために収集してきました。そして、自分に都合のいいものだけを選んでいたことに、ずいぶん経ってから思い至りました。
ヘリ事業部で報道の写真を撮る時にも、似たようなことが行われていました。帰省ラッシュで「東名が渋滞」と報じる時、実はそれほど混んでもいないのに、わざわざカーブの大きい地点で高度を低くして、混んでいるように撮るんです。
そうすると、もうそこは渋滞しているんですね。真実などというものはそこにはありません。その意識だけが真実になってしまいます。
論理も似たところがあるのかもしれません。論理的であればあるほど、相手は反論できなくなります。でもそこには感情も発想もなくなってしまう。過去の論理的な結論だけが生き残っていきます。
私も一生懸命教えようとすればするほど、自分の主張を強調することに力を注いでいたようです。結局、何も届いていなかったし、響いていなかったのでしょう。
「あなたの意見は?」から始まる
いい教官、尊敬されている機長と言われている人達に共通していたのは、相手と同じ目線に立って、一緒に考えるという姿勢でした。
相手を尊重して、認めることから始まっています。
自分の意見を相手の言葉で表現しています。
そして「どう思っているのか」「どうしたいのか」を聞いて、本人が自分で考えられるような場を作っていました。
外から「何やってるんだ」と壊すのではなく、本人が自分の中から「私は何がしたいのか」と問いかけられるように。
あの人達は、そうやって感情と行動の間の時間差の中で、自分で立ち止まれる力を育てていたのかもしれないな、と今になって思ったりします。
ものを動かすということは、エネルギーの伝達です。
人を動かすことも同じで、動いてもらいたいというエネルギーをいかに伝えるかが鍵になります。
ただ、機械のように小さな力でレバーを引けば動く、というわけにはいきません。人には感情があります。論理や義務や倫理観だけでは、どうも伝わらないようなんです。
感情に響かなければ、相手にエネルギーは伝えられないのだと、長い時間をかけて思い知りました。
これからの組織は、「あなたの意見は?」ということから始まるのかもしれませんね。
相手の視点から起きていることを眺めてみる。相手の感情を感じ取ってみる。そういうことが、これからもっと大切になっていくような気がしています。
会議の時、家族との話し合い。思い返してみると、自分の正当性ばかり主張していたなあと、私自身が一番思い当たるのですが。
私たちは何かを生み出すために、人を感じようとしているでしょうか?
「私はいったい、何がしたいのだろう?」
その問いを、まず自分に向けてみることから始めてもいいのかもしれません。



