急いでいたのに、ちっとも速くなかった
「あれ、サインした?」
泊まり先のホテルで、食事から部屋に戻って、さあ寝ようとした時でした。
ふと、頭に浮かびました。「あれ、サインしたかな?」
航空日誌のサインです。
絶対した、はずです。した記憶はある。でも、その「した」が、だんだん頼りなくなっていきます。
絶対したよな、と自分に言い聞かせるほど、疑問のほうが膨らんでいく。
そのうち、勝手に絵が浮かんできました。翌朝早く、整備の人が日誌を開く。サインの欄が、空いている。出発が、大幅に遅れる——。
そのイメージがブワッと出てきて、私はもう寝るどころではありませんでした。夜中に整備事務所へ電話して、サインがあるかどうか、調べてもらったのです。
ありました。私は、ちゃんとサインしていました。
ほっとしながら、同時に、少し薄ら寒い気持ちにもなりました。あれだけ「絶対した」と思っていたことが、自分でもわからなくなる。あの日、私はよほど急いでいたのだと思います。
「定時出発」という号令
その頃、会社では「定時出発」のキャンペーンが盛り上がっていました。
定時出発率は、航空会社の質を測る指標のひとつとして使われます。たぶん、今でも使われていると思います。だから、そこを上げよう、お客様のために、という活動でした。
ところが、です。
何が起きたかというと、航空日誌のサイン忘れや、細かいミスが、かえって増えてきたのです。
「サインを忘れないように」と、何度も告知が出ました。ミーティングでも、議題になりました。
それでも、起こる。一度言えば直る、というものではありませんでした。
いちばん象徴的だったのは、出発順を取るためのコールでした。
混雑する時間帯は、「準備が整う5分前」に管制へ報告します。その順番で、出発の順番が決まる。すると現場では、とにかくその5分前コールを早く——1秒でも早く——という空気が、空港の中に生まれていきました。
準備が整う前に、この5分前コールだけ先にする。今では、混雑時は管制があらかじめ順番を決めてしまいますが、当時は、そういうことが起きていたのです。
お客様のために、と始めたはずの数字でした。その数字を追いかけて、数字が測っていたはずのものが、こぼれ落ちていく。
反対側のバスに乗ろうとして
このサイン忘れを、私もその頃は、注意の問題だと思っていました。なんで忘れるんだろう、と。
でも、自分があの夜中の電話をしてから、少し見え方が変わってきた気がします。
道路の反対側に、乗りたいバスが来ている。あれに乗ろう、と思って渡ろうとした時、こちらに車が来ているのが、見えない。見ようとしていない、のではなくて、本当に視界から消えてしまう。
目的に意識が吸い込まれると、見えるはずのものが、ふっと視界から消える。
サインを忘れた人たちも、たぶん、不注意だったわけではないのだと思います。「定時に出す」という目的に意識を全部持っていかれて、完全に習慣になっているものを、やったように思い込んで、目の前の日誌が、すっと視界から抜け落ちていた。それだけのことだったのかもしれません。
そして私自身も、その一人でした。
「急ぐ」と「速い」は、別のものらしい
サインのことを考えているうちに、なんとなく、こう思うようになりました。
「急ぐ」と「速い」は、よく似た言葉なのに、中で起きていることは、まるで違うのではないか、と。
あとで本を読んでいたら、ちょうど同じことが書いてありました。急ぐと、速くするは、まるで違う、と。ああ、やっぱり、と思いました。
急いでいる時、意識は「目的」に張りついています。
早く出したい、早く着きたい。その一点に吸い込まれて、手元やまわりが見えなくなる。だから、かえってミスが増える。
一方、「速くやろう」とする時は、意識が「手段」のほうに向いている気がします。
先日のブログで、伊丹から徳島への便のことを書きました。あの短い便では、どこで時間を削れるかに、自然と意識が向きます。出発前から着陸のデータを出しておく。上昇している最中に、もう降下の準備をしておく。
やっていることは、段取りです。プロセスのほうを見ている。だから、まわりも見えたままなのだと思います。
ゴルフでも、似たようなことがあります。
前との間隔が空いて、後ろの組が詰まってくる。急がなきゃ、と思うと、なぜかミスが続きます。
でも、「速くしよう」と思うと、やることが変わる。スタンスの目標を、早めに取っておく。必要そうなクラブを、あらかじめ全部持っていく。カートに戻らず、そのまま前に歩く。
急ぐと、振り急いで曲がる。速くしようとすると、段取りが整って、かえって落ち着く。不思議なものです。
わさわさを、速さだと思っていた
振り返ると、いちばん厄介だったのは、これでした。
タイムプレッシャーがかかると、体の中が、なんだか、わさわさします。落ち着かない。気が急く。
そのわさわさを、私は長いこと、「努力している」しるしだと取り違えていたのです。
本当は、ただ目的に呑まれて、まわりが見えなくなっているだけなのに。むしろ遅くなって、ミスをして、サインまで忘れかけているのに。「自分はすごく速く飛んでいる」と思っていました。
実際、羽田への到着を速くしようと燃料を使って、スピードを上げて早く着こうとしても、管制間隔の順番で後ろに回されたら、それで全部パーになります。
自分の手元で、いくら気を急かしても、空の都合のほうが、ずっと上なのです。
それでも、あのわさわさは、なかなか正体を現してくれません。最初は、自分がわさわさしていることにすら、思いが至らないのです。
あれから、たぶん、私は何度も急いでいます。わさわさを速さと取り違えたことも、一度や二度ではない気がします。
ただ、近ごろは、わさわさしている最中に、「お、今わさわさしてるな」と、ふと立ち止まれる時が、たまにあります。何かを学ぶときも、早くできるようになりたい、と目的のほうへ意識が引っぱられかけると、「周りが、見えなくなってるぞ」と。
そういう時だけ、急ぐのをやめて、ほんの少し、段取りのほうへ意識を戻せている——気がします。
でも、急いでいる最中の自分が、いちばん、急いでいることに気づけない。
私はいまだに、見えていないものがありま



