俺って天才、と思ってしまった着陸のこと
打ちっぱなしでは、わりとちゃんと打てるんです。
それなのに、コースに出ると、まるで別人のスイングになる。同じクラブで、同じ体のはずなのに、なぜか動きが変わってしまう。打っている場所が違うだけで、こんなに変わるのか、と。振っているのは腕ではなくて、「意識をどこに置いているか」なんだろうと思います。
ゴルフでも操縦でも、こういうことがあります。
教わっているときに、教える人が一言、コツを口にする。すると、急にできてしまう。教わったほうは「おお」となり、教えたほうは「すごいでしょう」と気持ちよくなる。その場では、確かにうまくいくんです。
ただ、環境が変わると、それがまるで再現できない。打ちっぱなしで効いたコツが、コースでは消えてしまうように。言葉で受け取ったものは、状況が一枚変わると、どこかへ行ってしまう気がします。
洗濯機の中で
奄美大島に、冬の横風で進入したときのことです。
山越えの風が吹く日でした。風上へ機首を向けて、そこまでは静かに降りていけていた。それが、150mくらいの高度から、急に気流が崩れる。そこからは、洗濯機の中で操縦しているようなものです。
操縦桿は、左へ右へと大きく動いている。けれど、私が乗っていたDC9という機体は、操縦の遅れがひどい。操縦桿を動かしてから、機体が反応するまで、たぶん2秒くらいかかる。
考えてみると、おかしな話です。2秒遅れて返ってくる機体を、どうやって先回りして操縦しているのか。着陸したあと、私はいつもそれを不思議に思っていました。頭で「左に傾いた、では右」とやっていたら、いつも2秒前の過去に向かって舵を打っていることになる。間に合うはずがない。
それでも、体は降りていくんです。
そのとき私が見ていたのは、中心線を外さないこと、滑走路の見え方を一定に保つこと。それだけでした。そこに意識を置くと、体が素直に反応してくれる。「ちゃんと降りよう」とか「うまく見せよう」とか、そういうものは、そのときには無かった。
気がつくと、いつもより、いい着陸ができていました。俺って天才かもしれない、と思ってしまったほどに。
うまくやろうとした瞬間に
ただ、正直に言うと、もう一度やれと言われて、できる自信はありません。
次は、きっと「この間みたいにうまくやろう」という意識が芽生えてしまう。そして、それが芽生えた瞬間に、たぶんうまくいかなくなる。
あの着陸がうまくいったのは、たぶん、私が邪魔をしなかったときだけなんです。うまく見せようとする頭が戻ってくると、それが2秒の遅れの中に割り込んできて、崩してしまう。腕というより、邪魔をしないでいられたかどうか、なのかもしれません。
降りてから、手が止まった一行
操縦桿を握らなくなってから、ある本を読んでいて、一行で手が止まりました。
抽象や言葉は、人から具体的な現実を奪い取る暴君にもなる——というようなことが書いてあって。
読んだときに、奄美のあの着陸シーンが蘇ってきました。
計器の数字。「この間みたいにうまくやろう」という声。教官にもらった、あのコツ。あれは全部、言葉であり、抽象でした。そして洗濯機の中では、その抽象がいちばん遅い。操縦桿から機体まで2秒。言葉で考えて当てにいく頭は、間に合わないどころか、割り込んできて、いまここで起きていることから私を引き剥がそうとする。
あのとき体が見ていた中心線や、滑走路の見え方。それは、暴君に奪われずに残った、具体的な現実だったのかもしれません。うまくいったのは、その現実に体を預けられたとき。崩れるのは、言葉が「うまくやろう」と戻ってきたとき。
現役のあいだ、私はずっと、言葉の側で教え、言葉の側で教わっていた気がします。コツを一言渡しては、お互い気持ちよくなって。あの場所には、いまここを静かに見る目は、たぶん無かった。
それでも
ただ、ここまで書いてきて、怖くなることがあります。
「あのとき静かに見られていれば、もっとうまくなっていたかも」——この思いそのものが、また言葉で、抽象で、うまくやろうとしている頭なのではないか。静かに見る、ということを、私はまたひとつのコツにして、誰かに手渡そうとしている。手渡そうとした瞬間に、それはまた暴君の側に回ってしまう気がするんです。
その本には、こんな話も出てきました。毎日上り下りしている自宅の階段が、何段あるか。知ろうとして、もう一度のぼり直して、数えてみて、初めて数えられる。
たぶん、それだけのことなんです。けれど、その「数えられた」を握りしめて、誰かに「数えるといいですよ」と言った瞬間に、何かがこぼれ落ちていく気もしていて。
いまだに、うまく言えません。



